2012年



ーー−7/3−ーー 富士塚


 
この7月1日、富士山の山開きがあった。たまたま、私もその行事に遭遇した。変な言い回しでお気づきかも知れないが、本物の富士山ではない。

 東京都中央区の鉄砲洲稲荷神社。そこで親戚の法事が行なわれた。我が家の家系は神道である。祖父が京橋に住んでいたことから、永年に渡り法事はこの神社にお願いしてきた。

 早朝安曇野を出て、「あずさ」で東京に向かった。時間に余裕があったので、東京駅から神社まで歩いた。それでも、定刻よりだいぶ早く着いた。しばらくして従弟家族が現れた。ひとしきり挨拶を交わした後、奥様が「今日は富士山の山開きなんですよ」と言った。私は、その発言を唐突に感じたが、それを察したようで奥様は「この神社には、浅間神社の末社があるんです。あちらです」と言って、境内の奥へ案内してくれた。そこに富士山が立っていた。

 東京周辺に、富士塚と呼ばれるミニ富士山が多数存在するという話は、以前から聞いていた。江戸時代、富士登山が流行するようになったが、本物の富士山に登るのはた易くなかった。そこで、富士山に似せた小山を作り、浅間神社の末社を置き、登ったり拝んだりするようになったとか。その富士塚が、馴染みの神社の境内にあったとは、この日まで知らなかった。

 富士山は7月1日に山開きを行なう。各地の富士塚も、同日に山開きの神事を行うそうである。法事の日がたまたま7月1日だったので、山開きに立ち会うことになった次第。

 このミニ富士山の高さは6メートルほど。溶岩のような岩を積み重ねて作ってある。ひょっとしたら、富士山の岩を運んで積んだのか。作られたのは江戸時代の1790年頃だそうである。富士塚としては古い部類に入るようだ。

 ちゃんと登山道が付いていて、従弟の奥様は何度も登ったことがあると言った。道の一部に険しいところもあるとか。一昨年までは登れたそうであるが、昨年の地震の後は、危険を理由に立ち入りが禁止されている。

 境内の隅の、ビルに囲まれた場所に立っているので、なんだか気の毒な印象を受ける。作られた当時は、視界を遮るものも無かっただろう。この上に立てば富士山を望むことができたのではないか、と想像をめぐらした。











ーーー7/10−−− 三角コース踏破 


 常念岳と蝶ヶ岳。安曇平から望まれるこれらの山は、それぞれ日帰りで登ることができる。東京などの都会から登りに来る人は、日帰りと言うわけには行かないだろうが、地元の山屋にとっては、朝自宅を出て、登り終わってその日のうちに自宅に戻るのは、一般的な事である。しかし、これら二つの山の頂を、一日で回るとなると、話が違う。コースタイムで見ると14時間ほどかかり、累積標高差も2200メートル前後になるので、まず一泊二日の行程である。

 登山関係のサイトを見ていたら、安曇野を流れる烏川の谷の奥の三股を起点にして、常念岳と蝶ヶ岳を回って戻るコースを「三角コース」と呼び、それを一日で成し遂げることが、登山者の間で結構流行っていることを知った。それを自分でやってみたくなり、実行に移したのが昨年の9月28日。蝶ヶ岳から常念岳へと、時計回りで計画したのだが、蝶ヶ岳の山頂で不覚にも両足がつり、引き返す羽目になった。その顛末は昨年10月の記事に書いたので、覚えている人もおられるだろう。

 昨年も、夏山登山のためのトレーニングを積んでいた。だから、体力には十分に自信があった。にもかかわらず、肉体的な理由で敗退せざるを得なかったのは、ショックだった。長丁場を意識して、ハイペースで登り過ぎたことが原因と思われた。それにしても歩けなくなるという決定的な事態を招いたことが、情けなかった。

 これら二つの山の頂と、それらを結ぶ稜線は、安曇野を車で走れば否応にも目に入る。ぜひともやっつけなければ気持ちが納まらない。再挑戦を誓った。行動時間を長く取れるよう、一年で一番日が長くなる6月下旬を予定した。体力と脚力のさらなる強化を図るべく、正月明けから裏山登りのトレーニングを始め、その頻度も昨年より多くした。マウンテンバイクで中房温泉を往復することもやった。さらに、5月の連休明けから、ダイエットも取り入れた。トレーニングの成果は上がり、体力的には準備万端となった。

 足がつる事に対する対策も考えた。足がつる原因は、過剰な運動、寒さ、水分不足、ミネラル不足、深酒などが挙げられるらしい。過剰な運動は、登山だから仕方ないが、十分にトレーニングをすることで克服する。寒さは、この季節なら問題無いが、足元の冷えが気になるので、地下足袋は止めにして、登山靴にした。水分不足とミネラル不足は、行動中にまめにスポーツドリンクを飲むことで解決。また、日ごろからビタミンとミネラルの錠剤を取ることにした。前日の深酒は禁止。そして前日からバナナを食べた(バナナにはカリウムが多く含まれ、筋肉がつるのを防ぐ効果あり)。また症状が出た場合の対処法だが、芍薬甘草湯という薬を服用すると即効性があり、バンデリンなどの塗布薬も有効だとネットの情報にあったので、それらを準備した。

 梅雨どきなので、天気が定まらない。また、今年の梅雨は、天気予報が外れがち。いつになったら実施できるかと気をもんでいたところ、7月3日の夕方になって、翌日は晴天との予報が出た。天気図を見た限りでは、何故そのような予報が出るのか疑わしかったが、複数の予報が同じ傾向を示していたので、信用することにした。そそくさと登山の準備をし、就寝した。

 翌朝は3時に起きた。前の晩に飲酒を控えたので、眠りが浅くて困った。準備してあったザックに弁当と水を入れ、4時前に自宅を出た。軽トラのバックミラーに、暗がりに立って見送る家内の姿があった。30分ほどで三股の駐車場到着、軽トラを停めた。ガラ空きだった。すでに夜は明けて、明るくなっていた。登山靴を履き、準備体操をして、4時28分登山開始。今回はまず常念岳(2857m)に登り、蝶ヶ岳(2677m)へ回る計画。常念岳までの登りはきついが、その先は標高が下がるコースなので、心理的にはラクだろう。

 常念岳の山頂に着いたのが9時11分。4時間以内で登り切るつもりだったので、思いの外かかったという感じ。でも、これ以上のスピードでは歩けなかった。山頂の手前で、左足の太腿がつりそうになった。スピードを落として、騙しだまし歩いた。登路の途中で出会った登山者は一人だけ。1ピッチ目の休憩で、朝飯を食べていたら、その男性に追い抜かれた。軽装の、初老の登山者だったが、やけに速いペースで歩いていた。その後、私は追いつけなかったし、後ろ姿を見る事も無かった。さりげないいでたちと、異常な健脚ぶりは、ひょっとして山小屋関係者かと想像した。

 この先は、いったん400メートルほど下り、小さなピークをいくつか越えた後、約200メートル登り返して蝶槍に至る。上り下りはあるものの、目的地の標高がここより200メートル弱低いので、気持には余裕があった。山頂で握り飯をほおばり、そそくさと下りにかかる。

 途中、中高年のパーティーを追い越した。接近する私に気が付いて、道をゆずってくれた。それは普通の事だが、すれ違う時にリーダーとおぼしき人が、「わたしらの後ろに付いていたらとんでもなく時間がかかりますから」と、独り言のようにつぶやいた。それがなんとなく滑稽だった。

 11時58分、蝶槍に着いた。昨年、反対側から来て、引き返した地点である。その時無念を感じながら眺めた常念岳が、いまは私の背後にある。達成感がじわじわと押し寄せた。気分は良かったが、そこそこ疲れていた。空腹にもかかわらず食欲が無かった。天気が良く、暑かったので、大量に発汗し、バテたのだと思った。幸いにも常念岳からここまで、足がつる気配は無かった。山頂で服用した芍薬甘草湯が功を奏したのか、それとも水に溶かして飲んだアミノバイタルが効いたのか。

 蝶ヶ岳ヒュッテまで、稜線を歩く。目の前に展開する槍穂高連峰をはじめとして、素晴らしい展望のプロムナード・コースである。この稜線上で、誰にも会わなかった。誠に良い日に登ったものである。ヒュッテで、500ccのスポーツドリンクを一本購入した。持参した2リットルの水が、残りわずかになっていたからである。売り場の女性従業員が「昨日までとは打って変わって良い天気になりましたね。暑いくらいですね」と言った。

 三股に向かって下る。途中、蝶沢の雪渓を渡るのだが、雪が融けたため、ルートの真ん中に直径60センチほどの穴が開いていた。暗い穴の中から、ゴーという流水の音が聞こえていた。そこを通過する瞬間が、この山行で一番怖かった。

 15時33分に三股の駐車場に帰り着いた。夏場の最盛期なら、この大きな駐車場も満杯になる。この日は数台の車しか無かった。乾いたアスファルトの上に足を投げ出して座り、登山靴を脱いだ。ホッと安堵感が訪れた。

 軽トラで烏川沿いの道を下る。谷が安曇平に開く手前に、温泉施設がある。そこの露天風呂から、常念岳から蝶ヶ岳に至る稜線が見える。湯船に浸りながら、その山々を眺めた。我ながらよく歩いたものだと、ちょっとした感慨だった。

 この年齢になると、年を追うごとに体が衰えて行く。数年前に出来たことが、今ではもう出来ないということが、ざらにある。昨年失敗して落ち込んだ三角コース。別に大した事ではないが、再挑戦を決意し、それなりの努力を重ねて準備をし、実行して成功した。そのプロセスに、ささやかな満足を覚えた。




ーーー7/17−−− 地元で展示会 


 安曇野で展示会を行なった。地元開催の展示会は、個展としては1994年以来、グループ展を入れても2006年以来のことである。

 これまで、地元で展示会をやっても、ビジネス効果は低いと判断していた。そこでここ数年は、昔住んでいた千葉県での個展に的を絞って活動してきた。その展示会は、かなり成績を残してきたが、それだけに頼ることへの不安も指摘された。そこで、とりあえず身近な場所で展示会をやることにした。この地に住んで20年以上になる。人間関係も増えてきた。過去とは違う展開に期待を抱いた。

 会場は、林の中のギャラリー。純粋な貸しギャラリーで、広報宣伝も来客の接遇も、借り手がやらなければならない。会期前に鍵を預かり、会期終了後に鍵を返すというやり方。これはある意味で気楽である。

 ほんの小さな、アットホームな展示会で良いと思った。そのため、DM(案内ハガキ)もパソコン印刷で僅かな数量を刷り、近在の知り合いに配れば良いと考えていた。しかし、事前にギャラリーのオーナーと面会をしたら、この地のホテルなどにカードを置いてもらうと、結構効果が有るようだと言われた。そこで急遽、印刷会社にウエブ入稿で註文し、1000枚印刷した。それが整ったのが会期の10日ほど前だったが、900枚を地元のホテル、旅館、ギャラリー、ショップなどに回って置いてもらった。置かせて貰える施設のリストは、オーナーが提供してくれた。それは大いに有り難かった。もっとも、置いてきたDMのうち、何パーセントが実際に人手に渡ったかは分からない。

 会期前日に、展示品の家具を軽トラで運搬した。開場の大きさから見て、軽トラ一杯ぶんの数量で十分だと判断した。あまり多くを詰め込むと、的が絞れなくなって逆効果になる恐れがある。小雨が降る中の積み込み作業は気が滅入った。ギャラリーまでは5分ほど。搬入の時は雨が上がり、助かった。

 会期中の来場者は、正直に言ってあまり多くはなかった。奇しくも、当初の「小さくて、アットホームな展示会」という方針に合った結果となった。DMを送付した近在の方々のうち、来てくれた人もいたが、来てくれなかった人もいた。来てくれなかった人がいたのは残念だが、こういうことは思い通りにならないのが常である。逆に、来て下さった方々を有り難いと感じることが筋であろう。

 展示会の成果は、考え方次第である。来場者が少なくても、ビジネスの動きが僅かても、お客様と交流が持て、有意義な印象を抱ければ、実施した甲斐があったと判断できる。私はそのように考える。その意味では、幸運なことに、成果が無かった展示会と言うのは、これまで無かった。今回の展示会も、十分に意味が有ったと思う。



 今回は、家内の作になる布の作品も展示した。二本立ての展示会である。過去にも、私の展示会の会場の端で、家内の品物を展示したこともあった。しかしそれは添え物的性格であった。展示会のタイトルに「木工家具と布こもの」と表したのは、今回が初めてである。家内は当初、自分の作品を展示することに関して、あまり乗り気ではなかった。これまでの経験から、あまり売れず、関心も呼ばないと踏んでいたのである。また、プロの作品を展示する場に、素人の作品を置くのは好ましくないという、昔誰かから聞いたアドバイスを、いまだに信じていた。それでも、アットホームな雰囲気の展示会には、家内のアイテムも必要だ、という私の意見に従って、出品に応じた。

 結果的には、家内の作品も評判が良く、たくさんお買い上げ頂いた。これなら、もっと作っておけばよかったなどという言葉も出たくらいである。当人は素人細工だとへりくだるが、丁寧な作りで、センスも良い。それが正当に評価されたことは、この展示会のもう一つの成果であった。

 






ーーー7/24−−− ダイエットの結果


 5月の連休が終わった直後、ダイエットを宣言した。6月末までのおよそ50日間で、82キロから75キロまで落とすのが目標だった。それについては、5月の記事に書いたが、その結果はどうだったか。

 毎朝起床直後に、体重を計ることにした。微妙な上下を繰り返しながら、次第に数値は下がり、6月最終週の平均は77.9キロになった。4キロ程度の減量は達成できたことになる。当初の目標の7キロには及ばなかったが、数値で見る以上の変化が体に現れた。

 まず、見た目にぐっと痩せた。裏山登りのトレーニングを強化したので、下半身はむしろ太くなった気がするが、上半身は細くなった。鏡に映る自分を見てそう感じる。また、自分では見えない角度からも、確実に痩せたようである。毎日見ている家内がそう言うのだから、間違いない。

 先日、東京で法事があり、久しぶりにスーツを着た。数年前に購入したものだが、ずいぶん緩くなっていた。上着はダブついて、貧相に見える寸前だった。ズボンはウエストがユルユルで、拳が楽に通るほど余裕があった。

 我が家のタンスには、会社員時代に着ていたスーツやブレザーが多数残っている。十数年前から、それらは使えない物となっていた。会社を辞めた当時、体重は72キロくらいだった。日常的にジョギングをしていたので、スリムな体型だったのである。信州に越してから、運動はさっぱりやらなくなった。また、通勤も無くなったので、歩くことすら無くなった。

 そして、開業して数年後に、気管支炎をおこして1ヶ月ほど入院したことがあったが、それを境に体重がグッと増えた。一時は90キロ近くなっていた。72キロの体型に合わせて購入した過去の服は、腕を通すこともできなくなった。そんな状態がずうっと続いてきた。古い服は処分しようかとの話が出たこともある。

 興味本位で、それらの服を取り出してみた。そうしたらちゃんと着れたではないか。それはまったく驚きの出来事だった。いささかきつい部分はあった。ズボンは、かろうじてウエストのホックが止められた。上着は、腹の辺りが張っていて、そのまま人前に出るのは恥ずかしい感じだった。それでも、体が入ったという事実だけで、大いに驚いた。もう少しダイエットを進めれば、古いスーツを着て外出できるようになるだろう。

 減量と並行して、血圧の値も良くなった。私は血圧が高い方ではないが、冬場に運動不足になり、体重が増えるといささか値が上がり、正常値の上限くらいになる。それが、春から裏山トレーニングを始めると、だんだん下がってくる。最近は上が110台、下が70台を示すようになった。至適血圧の範囲である。

 その後も体重は減少傾向にあり、特に常念岳ー蝶ヶ岳の日帰り登山をやった後は一段と低くなった。7月第二週の平均値は76.1キロだった。この先どこまで下がるのか、実験的な興味が湧いてきたくらいである。

 適度な運動と、カロリー摂取制限。それらがもたらす減量。言わずもがなだが、とても体に良いようだ(家計にも良い)。生活習慣病の予防にもつながるだろう。私の場合、残る問題点は飲酒だけである。




ーーー7/31−−− 夫婦でテント山行


 最初の画像は、学生時代に購入した「空から見た北アルプス」という本の一ページ、鹿島槍ヶ岳の写真である。岩を削って作った彫刻のような姿から、現実離れした印象を受けた。この二つの頂きを持った山が、深く記憶に残った。

 私の登山経験の中で、北アルプスの名だたる山々のほぼ全てが登られた後も、この山だけは残された。ようやく初めて頂きに立ったのは、一昨年のことであった。しかしその時は、暴風雨のような天気だったので、南峰に達した時点で引き返した。北峰は未踏のままとなった。いずれやり直し登山をしなければならないという気持ちが残った。

 家内は若かった頃、会社の登山サークルに所属して、男性顔負けの体力と食欲で存在感を発揮していた。家庭に入ってからは山から遠ざかっていたが、4年ほど前からまた近場の低山に登りはじめた。ところが、3年前に奥秩父の金峰山に登った時、登山靴の底が剥がれ、不自然な歩き方を強いられて膝を痛めた。それからまた山に行けなくなった。

 今年になって、裏山登りに誘ったら、膝の具合が良くなっているようだった。そこで、夫婦で北アルプスに登ることを思い付いた。日帰りで登れるコースもあるが、どうせならテント泊にしようと考えた。家内は、テントに泊まる登山は33年ぶりである。昔使っていた安物の寝袋では不安なので、新たに購入した。

 行先は、懸案の鹿島槍ヶ岳に決まった。家内は、この山は初めてである。ルートは、扇沢から種池山荘経由で爺ヶ岳に登り、冷池山荘のテント場で泊る。翌日、鹿島槍ヶ岳を往復してテント場に戻り、前日の道を下る。私にとっては、北峰まで行くのが譲れない目標だった。

 家内の負担を減らすため、装備は全て私が背負い、家内は空身で歩くことを提案した。しかし、それは元山女のプライドが許さないようだった。結局、家内は小さいザックに自分の寝袋と雨具、少量の水とお菓子を入れて背負うことになった。その重量6キロ。一方の私は、テント、炊事道具、食糧、水6キロ、それに個人装備で、ザックの重さは22キロとなった。

 7月24日、朝4時半に自宅を出た。すぐに空が明るくなり、途中で車のヘッドライトを消した。登山口の駐車場に着くと、数台分の空きしかなかった。

 5時半に登山開始。天気は高曇りだが、まずまずの様子。順調に登って、種池山荘に9時半着。事前に体力不足を心配していた家内も、全く問題無く元気だ。その頃からガスが出てきて、遠くの景色は見えなくなった。10時40分に爺ヶ岳山頂着。過去何度も訪れた山頂だ。十数年前に家族登山で登ったことが思い出された。

 爺ヶ岳の三つ連なる頂上の西側斜面をゆるゆると下り、一番低くなった所から少し上がると冷池山荘。テント場は、さらに8分ほど上った所にある。12時50分に到着した我が家は、一番乗りだった。





 テントを設営して、一段落。昼食を取り、その後は長い午後をゆったりと過ごした。しかしながら、ガスが濃くて、全く眺望が利かない。家内はがっかりした様子でテントの中に入り、横になった。私はテントの前で、持参したウイスキーをチビチビやり、ウォークマンで名曲を聴きながら時間を過ごした。景色は何も見えなかったが、山上のリラックス・タイムは楽しかった。













 このままガスに囲まれたまま夜になるかと思った。雨が降らないだけでも良かったなどと慰め合った。ところが、日没間近になって、にわかにガスが晴れ、周囲の景色が現れた。これは劇的な変化であった。テント場にあった五つのテントの住人たちは、それぞれ戸外に立ちつくし、この雄大な大自然の現象を眺めていた。

 






 中学生のお嬢さんと父親の、二人連れのパーティーがいた。家内が声を掛け、しばらく会話を交わして楽しかった。私一人なら、山の上で他人と話をすることは、まず無い。40年以上に渡る登山経歴が、山上で見知らぬ人と気安いお喋りをする事を制限する。しかし家内には、そのようなわだかまりは無い。おかげでちょっと新鮮な体験ができた。

 家内が山小屋へおやつを買いに向かった。私はその後に付いて行ったが、いささか酔っていたためか、登山道から足を踏み外して、林の中に転がり落ちてしまった。頭が逆さまになって、ズルズル落ちかけたが、木の枝に掴まってようやく止まった。こんなことは初めてだった。家内は驚いた様子で「だいじょうぶ〜?」と声を掛けた。なんともみっともないシーンを見せてしまった。

 テントの夜は長い。10時頃いったん目が覚めた後は、眠りが浅く、起床時刻まで何度も時計を見た。家内はもっと眠れなかったようである。風でテントがはためく音が気になって、よく眠れなかったと言った。けっして強い風ではなく、ありふれた現象だったが、33年ぶりの身には、不安を起こさせたのかも知れない。

 翌朝、暗いうちにテントから顔を出すと、ポツポツと星が見えた。天気は良いようだ。テントの中で朝食の準備をする。まだ真っ暗な中、ヘッドランプを灯した登山者たちが通り過ぎる。山頂で御来光を見ようという、小屋泊りの連中だろう。





 朝食を終え、テントはそのままにして、4時20分出発。しばらく歩くうちに明るくなり、ヘッドランプのスイッチを切った。風は多少あるが、視界は良い。左手に剣岳、立山の峰々。右手には、遠い雲間からこぼれる金色の光の筋。実に爽快な気分で、鹿島槍ヶ岳南峰への道を辿った。









 ところが、山頂が間近になった頃から、ガスが湧き出し、風も強くなった。なんとも不安定な天気である。5時40分南峰に到着。居合わせた数人の登山者は、岩陰に身を沈めて強風を避けていた。北峰に至る吊り尾根の登山道は、険しい下りのすぐ先でガスの中に消えていた。先に着いていた例の親子は、風が強いので北峰まで行くのは断念したと言った。

 強風にあおられそうになりながら、北峰に向かう。出だしの下りは傾斜がきつく、岩場状の部分もあるが、その後は特に問題無い。30分ほどで北峰の頂きに着いた。残念ながらガスに囲まれて何も見えない。しかし、長年にわたる憧れだった山頂に立てた喜びは大きかった。





 強風のため、くつろぐ余裕も無く、記念撮影だけしてそそくさと帰路に着いた。この山行の間、先頭は私、二番目が家内という順で歩いた。たまに家内を先に行かせて、写真を撮るときもあった。南峰に登り返す岩場の斜面でも、家内を先に行かせた。そうしたら、凄いスピードでどんどん登って行った。まるで猿だ。多少の荷の重さの違いはあったが、私は追いつけなかった。









 南峰に戻って、一休みした。オレンジを切って食べたら、美味だった。家内が、近くの登山者にも差し出したら、恐縮していた。相変わらずガスに視界を遮られ、風もビュービュー吹いていた。長居をする理由も無く、山頂を後にした。

 しばらく下ると、視界が開けた。振り返ると、山頂が見えた。我々が滞在した時だけ、天気が悪かったのか。

 テント場に戻り、テントを撤収して、下山の途についた。爺ヶ岳の斜面をトラバースする道で、三回ほど単独の若い女性登山者とすれ違った。小奇麗なファッションの山ガールである。今回の山では、単独の若い男性も数名見かけた。若者は何を求めて、一人山の中に入って行くのだろうか。

 11時10分、種池山荘に着いた。小屋の前で休んでいたら、この日は地元の中学が集団登山でやってくるとの話を聞いた。降り始めてすぐ、まだ近くに小屋が見える場所で、その集団に出会った。中学二年生3クラス90人が、行列を作って上がってきた。生徒たちは、疲れた様子もあったが、ワイワイと賑やかだった。その中に、ひどくバテて声も無い教師がいて、気の毒だった。

 下りの最後の方で、家内が少し膝が痛いと言いだした。モーラスを貼り、バンデリンを塗ってしのいだ。少しペースを落として歩き、1時50分に登山口へ帰り着いた。家内はよほど安堵したようで、何度もそれを口にした。

 事前には、家内の体力と膝に不安があり、冷池山荘のテント場まで行けないことも想定した。その場合は、種池山荘のテント場で泊り、鹿島槍ヶ岳は諦めることになっただろう。また、山上で行動が滞った場合に備え、予備の食料を一泊分持って行った。しかし、いずれも杞憂に終わり、予定したコースを辿ることができた。むしろ良いペースで歩き、所要時間は予想より短いくらいだった。不安をはねのけて、首尾よく山行を遂行できたことは幸せだった。また、今後もこのような登山ができる感触を得て、嬉しく思った。

 自宅へ戻る途中で温泉に入り、その後大町市内のファミレスで食事をした。山中ではインスタント食料ばかりだったので、むしょうに野菜が食べたかった。午後の空いた店内で、野菜サラダの大皿に向かい、家内と二人でガツガツと食べた。そのシーンは、ふと20世紀前半の米国のハードボイルド小説を思い出させた。






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